ネットの大多数=世間の少数
ネット、というかパソコンの特徴のひとつは「検索性」にあると思っている。
逆に、紙や本、書店、図書館などの強みは「閲覧性」にあると思っている。
極端な対比ではあるけど、
ネット=「能動的な検索性」
リアル=「受動的な閲覧性」
という対比もできるかもしれない。
この投稿で言いたいことは、ネットは無意識的に「検索性」の中で情報を獲得している危険性を認識していない。ということ。
例えばTwitter。
基本的に、タイムラインは「自分自身が獲得したフォロー」によって得られた情報が洪水のように流れている。でも、自分が獲得した情報のみが流れているという意識は薄いような気がする。
例えばFacebook。
基本的に、タイムラインは「自分自身にとって親しい人や似たもの同士が多い」中で得られた情報が洪水のように流れている。でも、自分にとって親しい人や似たもの同士の情報が流れているという意識は薄いような気がする。
例えば、GoogleやYahoo。
基本的に、そこで得られる情報というのは、自分が気になって検索した情報が表示される。
そう考えると、ネットの大多数というのは、あくまで自分が能動的に検索した情報の中で得られためちゃくちゃ情報を絞りに絞った中で表示されるものの濃度によって錯覚するものでしかない可能性は高い。
リアルで考えてみてほしい。
あなたが本屋で見ようとしているもの、あるいは棚に対して、その本屋の敷地面積はどれほどの広さだろう。どう考えてもぽつんとしているに違いない。でも、パソコンのディスプレイから表示される情報は、見事なくらいにその本屋で行ったら関心のある本棚の情報に限定されているはず。更にいうと、本屋は見ようと思っている本以外の本、興味がある棚以外の棚が「閲覧」できるのだ。でもパソコンはその部分は見事にシャットアウトされている。「検索」の賜だ。
ネットの大多数=世間の少数
なのだ。
そういう意味ではテレビも紙もまだまだ存在意義はあると思う。